カテゴリ:まち博の物語( 33 )

 

龍馬が萩に来た!

今年のNHK大河ドラマが「龍馬伝」ということで、テレビではバラエティ番組もCMも龍馬がよく登場しているようですね。

龍馬は萩を訪れたことがあり、桂小五郎や高杉晋作、久坂玄瑞とも接点があったそうです。
萩博物館では「晋作と龍馬」という企画展も開いたことがあります。

そこで、何かこのブログのネタになりそうなことがないかな~と、ぱらぱらと資料をめくっていたら、ふと目に入ってきた「一月十四日」の文字。今日の日付ではありませんか!

当時は旧暦なので、換算すると違う日になってしまうのかもしれませんが、あくまでも日付が共通するということで、148年前の今日、龍馬と萩の間に何がおこっていたかというと・・・

文久2年(1962)1月14日、龍馬は武市半平太の手紙を久坂玄瑞に渡すため、萩を訪れました。この日の夜は松本村の旅館に泊まり、翌日からは、江向の諸国文武修行者宿に移りました。23日までの滞在中、松陰門下生たちとワラ束を切ったり、藩校明倫館にある剣槍術場・有備館で剣術の試合をしたこともあったのではないかといわれています。
同年3月に龍馬は土佐を脱藩していることから、萩での志士たちとの交流がなんらかの影響を与えたといわれています。

b0181333_14512779.jpg松本村の旅館は、現在、松陰神社の駐車場になっていて、跡地には「薩長土連合密議之地」の碑が立っています。



b0181333_1453067.jpg有備館は現在も昔の姿のまま、藩校明倫館跡に建っています。


b0181333_1453252.jpg「他国修行者引請場」と書かれた看板も・・・



諸国文武修行者宿は、藩校明倫館のすぐ近く、現在の萩裁判所の西側にあったそうです。

龍馬を追って、萩を歩いてみてはいかがでしょうか?

*Aでした*


↓参考地図です


参考資料:萩博物館企画展図録『晋作と龍馬』ほか
[PR]

by hagimachihaku | 2010-01-14 17:09 | まち博の物語  

村田清風と撫育金

明日の土曜日(12月5日)、(社)萩文化財保護協会の主催で、
『村田清風を学ぶ会』が開催されます。

30名の募集で、50名を越える方から応募がありました。

村田清風は、維新前の幕末に活躍した萩藩の重臣で、
「天保の改革」を行った中心人物として知られています。

清風の行った「天保の改革」は、
質素倹約による財政改革、
明倫館の移転などの教育改革、
羽賀の台の大演習などの軍事改革など・・・
多岐にわたった大改革でした。

その中でも、私が注目するのは、
「撫育金(ぶいくきん)の創設」です。

清風は、奥州や北陸から日本海を通って、
大阪や江戸に産物を運ぶ回船に目をつけました。
その中継基地である下関に、「越荷方(こしにがた)」という役所をつくり、
荷物を陸揚げさせ倉庫料を取ったり、
その荷を預かって金を貸し、その利息を稼がせました。

その収入を「撫育金」として、
藩の非常の場合のみに使う基金にしたのです。

萩藩は、この「撫育金」で、
軍艦3隻と最新式の鉄砲7千丁を買い入れて、
徳川幕府を倒し、新しい明治政府をつくりました。
また、その新政府のために、80万両も寄付できたといいます。

明治維新は、清風の「撫育金」により成しえたともいえます。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-12-04 11:10 | まち博の物語  

萩と大相撲

先週の日曜日、大相撲九州場所の千秋楽で、
横綱 白鵬が朝青龍を破り、全勝優勝を果たしました。

さて、萩と大相撲、あまり関係ないようですが・・・

実は、第6代横綱 阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)は、
江戸時代萩藩のお抱え力士だったのです。

阿武松の名は、第10代藩主 毛利斉熈(もうりなりひろ)が、
萩の名勝「阿武(あぶ)の松原」に因んで命名したと言われています。

大変人気のあった力士のようで、落語や講談にも取り上げられています。

通算成績は、26場所 142勝31敗24分8預1無37休 優勝5回
その当時は年間2場所で、9番勝負だったようです。

今も阿武松部屋という相撲部屋があり、
現役時代は白いウルフと呼ばれた元益荒雄(ますらお)が親方をされています。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-12-03 10:22 | まち博の物語  

萩の伝説その2

今日は、江戸時代に城中で行われていたといわれる『年頭問答』をお話します。

萩城中の年頭問答

慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は、
中国地方8カ国120万石の大大名から防長2カ国36万石に削られ、
ここ萩の地に封じ込められました。
藩主以下家臣にいたるまで、幕府に対する悲憤の涙を流して、
辺境の地・萩に居城を構えました。
以来、毎年の正月元旦、年賀の儀式を行なう前に、
藩主と近臣の間で問答が繰り返されました。
「もうよかろうか・・・」
「まだお早うござります」
誰にも知られないように、この言葉が交わされたのち、
はじめて年賀の式に移ったといわれています。
この「もうよかろうか」は、いうまでもなく、「もう幕府を討ってもよかろうか」であったといいます。

この思いが明治維新の大業を成し遂げたのかも知れません。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-27 11:16 | まち博の物語  

菊ヶ浜

私が観光課の頃よく菊屋家を訪ねることがありました。
菊屋家とは、萩城城下町の中心にある国指定重要文化財『菊屋家住宅』のことです。

私が訪ねると、菊屋家の奥さま(ご主人は元萩市長)が
菊屋家のことや萩のことなどいろいろと話してくださいました。

その話の中の一つをご紹介します。

それは、現在山口県を代表する海水浴場である『菊ヶ浜(きくがはま)』の話です。
『菊ヶ浜』は白砂青松の美しい浜で、
夏には多くの海水浴客が訪れています。

この『菊ヶ浜』、昔は『阿古ヶ浜(あこがはま)』と呼ばれてたそうです。
その『阿古ヶ浜』が、菊屋家の名前をとって『菊ヶ浜』と呼ばれるように・・・。

なぜ『菊ヶ浜』と呼ばれるようになったのか?

何度も奥様から聞かされたのに、記憶があいまいなので、
『菊屋家住宅』のホームページを参考に紹介します。

菊屋家は、慶長九年(1604年)輝元の萩入国に従い、
現在地に屋敷地を拝領して家を建てました。
また城下の町割りに尽力し、阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための家を建てて住まわせたので、
それより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになりました。
その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めました。

浜の名前にも歴史と物語がある『萩まちじゅう博物館』に、
是非一度お越しください。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-26 11:03 | まち博の物語  

萩と石巻

毎月2~3件、全国の自治体や議会のみなさんが、
まちじゅう博物館の視察に来萩されます。

今月の11日には、宮城県の石巻市議会のある会派のみなさんが
視察のため来萩されました。
石巻市議会の来萩は昨年に続き2回目です。

昨年、初めて石巻市からお迎えするにあたって、
萩と石巻の関係を調べましたが、
想像通り何もありませんでした。

石巻の話をしていると、萩博物館の副館長からある人物の話を聞きました。
副館長も市内でボランティアガイドをしている方から聞いたとのことでした。


その人物は、『川村孫兵衛重吉』

なんと萩出身で、石巻市の基礎を築いたひとなんです。

石巻市に建つ『川村孫兵衛』の銅像の碑文には、
次のように記されています。

天正3年(1575)長州(山口県)に生まれる。
毛利家に仕え、二十代前半、伊達政宗の家臣となる。
治山治水に優れた技術を発揮、政宗の命令で北上川改修工事の責任者となる。
工事は元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)に至り、
工事費ねん出のため自ら借財、あるいは工事現場に泊まり込むなど、
筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。
この大改修により石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、
葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となる。
河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、
江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。
治水に伴って流域では32万石余の新田開発も行われ、
地域の発展に計り知れない恩恵をもたらす。
工事完成後は石巻に住み、慶安元年(1648年)、74歳で世を去る。
河北新報社は石巻市制施行50周年に当たり、
港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるためここに川村孫兵衛重吉の銅像を建立、
石巻市民に寄贈する。

昭和58年(1983年)8月1日
河北新報社
銅像題字 一力一夫 河北新報社社主・会長
銅像制作 翁 観二

川村孫兵衛は、萩市の三見地区の出身といわれています。

遠く東北の地で、萩出身のひとが大恩人として崇められているのです。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-25 09:40 | まち博の物語  

萩の伝説その1

今日は萩の伝説を一つお話しましょう。

その伝説は、『山伏伝説』


むかし、兼道秀太郎という山伏が、諸国を巡ってこの萩の町まできたとき、
住吉神社夏祭りを前にして町はその準備に大わらわであった。
いつも、各町内は踊車(おどりぐるま)の先行の順序を決めるくじに血眼(ちまなこ)になるのだが、
この年の引受町、今魚店(いまうおのたな)では、この通りがかりの山伏に占ってもらった。
くじは当りと出た。
さて当日となり、そのくじの外れたのを知ると、町民は憤激して山伏を袋叩きにし、
この町の辻に生き埋めにした。
いまその霊を慰めるため、町内の土塀の一角に、その碑が組込まれている。


ちょっと物悲しい伝説です。
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-24 13:42 | まち博の物語  

小岩井農場

岩手県にある「小岩井農場」は日本最大(約900万坪)の敷地を誇る民間総合農場です。

では、この農場の名前は、なぜ「小岩井」と名付けられたのでしょうか?

小岩井農場は1891(明治24)年に開設され、
共同創始者である
小野義真(日本鉄道会社副社長)
岩崎彌之助(三菱社社長)
井上勝(鉄道庁長官)
の三名の頭文字をとって「小岩井」と命名されたのです。

「井」の井上勝は、萩市出身で「鉄道の父」と呼ばれている人です。

井上勝は、1863(文久3)年に下関で攘夷戦争を行っていた長州藩が、
密かにイギリスに派遣した5人の若者(長州ファイブ)の一人です。

井上勝はイギリスで鉄道を学び、
帰国後は日本全国で鉄道の敷設に尽力し、
初代鉄道庁長官になった人です。

みなさんが「小岩井農場」の製品を手に取られたとき、
「井」の井上勝のことを思い出してください。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-21 07:05 | まち博の物語  

蔚山(ウルサン)広域市

みなさんに質問です。

日本と韓国(大韓民国)の都市の中で、
最初に姉妹都市となったのは、どこの都市と都市でしょうか?

答えは、日本の萩市と韓国の蔚山(ウルサン)市(現蔚山広域市)です。

では、なぜ両市が姉妹都市の盟約を締結したのでしょうか?

それは、萩市と蔚山市は日本と韓国の都市で一番近い距離にあるからです。

両市が姉妹都市となったのは、
日本と韓国が国交を正常化(昭和40年6月22日)して間もない
昭和43年10月のことです。

姉妹都市になった頃の両市は、人口もさほどかわらなかったとのことですが、
41年が経った今・・・
萩市の約5万6千人に対し、蔚山広域市は約110万人と変貌しています。

現在の蔚山広域市は、現代(ヒュンダイ)自動車を代表とする
現代グループのお膝元の都市として、
また、都市・農村の複合都市として発展を続けています。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-18 15:37 | まち博の物語  

心の色

昨日に続いて萩と関係する歌の話です。

みなさんは中村雅俊さんが歌った「心の色」をご存知でしょうか?

♪受話器の向こうから 聞こえる涙声 君は誰にはぐれた ・・・♪

昭和56年から57年にかけてヒットした歌謡曲です。

これを作詞したのは、大津あきらさん。
大津さんは、萩の西隣に位置する長門市仙崎の出身です。

大津さんは、「心の色」以外にも、
「AL-MAUJ(アルマージ)」(中森明菜)、「輝きながら・・・」(徳永英明)、「約束」(渡辺徹)など・・・
多くのヒット曲を作詞しています。
しかしながら、平成9年、病気のため47歳の若さでこの世を去ります。

萩と「心の色」
私も萩がこの歌と関係しているとは全く知りませんでした。

しかし、ちょっと前のテレビ番組で、
中村雅俊さんが長門にある大津さんの実家を訪ねたとき・・・
大津さんのお母さんが、「心の色」を作詞したときのエピソードを話していらっしゃいました。

そのエピソードにこの歌と萩の関係があったのです。

長門に帰省していた大津さんが、夕方になったとき、お母さんに・・・
「萩に食事をしに行こう」
と誘い、
二人で車で出かけたそうです。

萩に向かう途中、
日本海に沈む、それは素晴らしい夕日が観え・・・

その夕日を観た大津さんは、
一気に「心の色」を作詞したそうです。

そういえば「心の色」の二番の歌詞に・・・



燃えるサンセット 唄ってごらんよ
遠くあどけない日々を
振り向けば 俺は此処にいる
だから夕日に踊り 君は
北へゆけ 寒い今日を生きて
西へゆけ
そしてララバイ・・・淋しさを知れば
愛しあえる



と、あります。

あなたも「心の色」に歌われる
『日本海の夕日』を観に、萩にお越しになりませんか?

おまけ・・・
テレビの収録のとき、中村雅俊さんは萩にも来られ、
萩博物館を訪ねられました。

そのとき、中村さんが高杉晋作役で出演された
NHKの大河ドラマ「花神」(昭和52年放送)の話を、
懐かしそうに語っていらっしゃいました。
(Y)
[PR]

by hagimachihaku | 2009-11-18 00:05 | まち博の物語