村田清風と撫育金

明日の土曜日(12月5日)、(社)萩文化財保護協会の主催で、
『村田清風を学ぶ会』が開催されます。

30名の募集で、50名を越える方から応募がありました。

村田清風は、維新前の幕末に活躍した萩藩の重臣で、
「天保の改革」を行った中心人物として知られています。

清風の行った「天保の改革」は、
質素倹約による財政改革、
明倫館の移転などの教育改革、
羽賀の台の大演習などの軍事改革など・・・
多岐にわたった大改革でした。

その中でも、私が注目するのは、
「撫育金(ぶいくきん)の創設」です。

清風は、奥州や北陸から日本海を通って、
大阪や江戸に産物を運ぶ回船に目をつけました。
その中継基地である下関に、「越荷方(こしにがた)」という役所をつくり、
荷物を陸揚げさせ倉庫料を取ったり、
その荷を預かって金を貸し、その利息を稼がせました。

その収入を「撫育金」として、
藩の非常の場合のみに使う基金にしたのです。

萩藩は、この「撫育金」で、
軍艦3隻と最新式の鉄砲7千丁を買い入れて、
徳川幕府を倒し、新しい明治政府をつくりました。
また、その新政府のために、80万両も寄付できたといいます。

明治維新は、清風の「撫育金」により成しえたともいえます。
(Y)
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# by hagimachihaku | 2009-12-04 11:10 | まち博の物語  

萩と大相撲

先週の日曜日、大相撲九州場所の千秋楽で、
横綱 白鵬が朝青龍を破り、全勝優勝を果たしました。

さて、萩と大相撲、あまり関係ないようですが・・・

実は、第6代横綱 阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)は、
江戸時代萩藩のお抱え力士だったのです。

阿武松の名は、第10代藩主 毛利斉熈(もうりなりひろ)が、
萩の名勝「阿武(あぶ)の松原」に因んで命名したと言われています。

大変人気のあった力士のようで、落語や講談にも取り上げられています。

通算成績は、26場所 142勝31敗24分8預1無37休 優勝5回
その当時は年間2場所で、9番勝負だったようです。

今も阿武松部屋という相撲部屋があり、
現役時代は白いウルフと呼ばれた元益荒雄(ますらお)が親方をされています。
(Y)
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# by hagimachihaku | 2009-12-03 10:22 | まち博の物語  

井上剣花坊夫妻の句碑

今年の「萩ものしり博士検定」で、井上剣花坊の結成した川柳結社の「柳樽寺社」の名前を問う問題が出題されました。
井上剣花坊は、萩市江向の出身で、小学校教員から新聞記者となり、記者のかたわら川柳の改革と復興に尽力しました。
妻の井上信子も萩市土原の生まれで川柳を学びました。
萩市民館傍に二人の句碑があります。
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なお、二人の墓は、今年の11月に萩市民号で訪れた鎌倉市の建長寺にあります。
Fでした
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# by hagimachihaku | 2009-12-01 12:03  

萩ものしり博士検定

昨日、萩ものしり博士検定が山口福祉文化大学で開催されました。

子ども検定には12名、修士課程には76名、博士課程には52名の方が、
それぞれの難問に挑戦されました。

今日は出題された問題から、それぞれ1題づつを紹介します。

まずは子ども検定から、
問 「焼きぬき」という独特の製法で作られる萩の特産品はどれでしょう?
 ①蒲鉾  ②夏みかん菓子  ③ごぼう巻き

次は修士課程
問 文久2年(1862)に尊王攘夷を論ずるため、武市半平太の使者として
萩を訪れた土佐藩の藩士は誰か。
 ①後藤象二郎  ②中岡慎太郎  ③坂本龍馬

最後に博士課程
問 昔は二枚貝と信じられていたが、昭和37年(1962)に見島で初めて
生きた姿で発見され巻貝であることがわかった貝は何か。カタカタで答え
なさい。


どうですか、わかりましたか?

答えは、上から①蒲鉾、③坂本龍馬、ユリヤガイです。

市民の方は「萩の再発見」に、萩ファンの方は「萩の新発見」に、
ぜひ萩ものしり博士検定に挑戦してください。
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# by hagimachihaku | 2009-11-30 10:37 | まち博の取り組み  

萩の伝説その2

今日は、江戸時代に城中で行われていたといわれる『年頭問答』をお話します。

萩城中の年頭問答

慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は、
中国地方8カ国120万石の大大名から防長2カ国36万石に削られ、
ここ萩の地に封じ込められました。
藩主以下家臣にいたるまで、幕府に対する悲憤の涙を流して、
辺境の地・萩に居城を構えました。
以来、毎年の正月元旦、年賀の儀式を行なう前に、
藩主と近臣の間で問答が繰り返されました。
「もうよかろうか・・・」
「まだお早うござります」
誰にも知られないように、この言葉が交わされたのち、
はじめて年賀の式に移ったといわれています。
この「もうよかろうか」は、いうまでもなく、「もう幕府を討ってもよかろうか」であったといいます。

この思いが明治維新の大業を成し遂げたのかも知れません。
(Y)
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# by hagimachihaku | 2009-11-27 11:16 | まち博の物語